幕末、長州の英雄「高杉晋作」の辞世の句です。
これは上の句だけで、下の句は体力がなくなって発することができず、
看病していた野村望東尼が「すみなすものは心なりけり」と詠み、
それに対して高杉は「おもしろいのぉ・・・」と言ったという説が残っています。
現代語訳をすると、上の句「おもしろくもない世の中をおもしろく」
下の句「そのようにするのは心であるのだろう」となるかと思われます。
慶応3年4月14日(1867年5月17日)高杉晋作は、28歳で、
明治維新を見ることなく結核で亡くなっています。
その亡き骸は、奇兵隊の本拠地である下関吉田に葬られました。
それから半年後、15代将軍徳川慶喜は、政権を返上することを申し出(大政奉還)、
260年あまり続いた江戸幕府は倒れ、明治という時代が始まりました。
高杉晋作は、吉田松陰を師事し、彼の死生観
「死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし。
生きて大業の見込あらばいつでも生くべし」
の通りに生き、そして逝きました。
高杉晋作だけでなく坂本竜馬に代表される、
時代を変えるべく命がけで動いた幕末の志士たちの多くは、
“藩”という組織から「脱藩」し、しがらみを絶ちました。
しかしその時代を考えるに、
それは野垂れ死にするかもしれない道を選んだことに等しく、
現代における「会社を辞め、故郷を捨て・・・」には例えることができない、
もっと重い覚悟と昂揚があったに違いありません。
わずか28年の人生を病床にて振り返り
「おもしろき こともなき世を おもしろく」と、
辞世の句を残した高杉晋作の「おもしろくもない世の中」とは・・・。
「おもしろく」とは・・・どんな意味が込められていたのか。
そしてまたその先に、一体どんな下の句を詠もうとしたのか・・・。
先人の生きた時代とその心情に思いを巡らし、この平成の時代を生きながら、
己を鼓舞し、奮起しなければの気持ちに激しく急かされます。
(補足)
野村 望東尼(のむら もとに)または(ぼうとうに)
文化3年9月6日(1806年10月17日) 〜慶応3年11月6日(1867年12月1日)
幕末の女流歌人・勤王家。福岡藩士・浦野重右衛門勝幸の娘。贈正五位。
文政12年(1829年)、福岡藩士・野村新三郎清貫と結婚。
安政6年(1859年)、夫が亡くなり、剃髪して受戒。
その後、福岡の南側の山村(現・福岡市中央区平尾)にあった
自分の山荘に勤皇の士を度々かくまったり、密会の場所を提供したりする。
彼女に便宜を図って貰った中には、勤王僧・月照、長州藩士・高杉晋作、
熊本藩士・入江八千兵衛、対馬藩士・平田大江、福岡藩士・平野国臣、
中村円太、月形洗蔵、早川養敬などがいる。
慶応元年(1865年)6月、福岡藩で、尊攘派弾圧の動きが強くなり、
孫の野村助作と共に自宅に幽閉され、
10月に姫島(現・福岡県糸島市志摩姫島)へ流された。
翌2年(1866年)9月、晋作の指揮により福岡脱藩志士・藤四郎、
多田荘蔵らが姫島から脱出の手引きをし、
下関の勤皇の豪商・白石正一郎宅に匿われ、
後に三田尻(現・山口県防府市の古称)で死去した。
密会場所として提供していた山荘は現在も保存されており、
山荘の敷地は平尾山荘公園として整備されている。
同公園内には彼女の銅像が設置されている。
なお、福岡市中央区赤坂3丁目には生誕地の碑が立っている。
<ウィキペディアより引用>