部下を持つ者にとっては、直ちに賛同し難い言葉かもしれない。
会議などにおいて愚かな発言がされるならばただちに断ち切りたい衝動にかられるものである。
織田信長であったなら決して言わなかったであろうとは、誰もが思うでしょう。
禁中並公家諸法度・武家諸法度・一国一城令を制定し264年の長きにわたる安定政権の基盤を作った徳川家康は、
竹千代といわれていた幼少時より今川義元や織田信長のもとで人質として忍従の年月を過ごしている。
今川氏から離れ念願の三河の国統一に至るのは、
家康と家臣の強い主従関係によるものであった。
その後、信長、秀吉に仕えやがて天下人になるのは周知の通りです。
家康の人生のどのあたりで、この考えに到ったのかは定かではないが、
彼の人生は、いわば忍耐の道であったから、
若い頃の家康に対し忠臣たちが種々の進言、苦言を呈したことは容易に想像でき、
それが彼の考え方に影響したのかもしれない。
約400年前の戦国時代を生き抜き、
その後264年間に渡る泰平の世の“統治基盤”を築き、
それによって、明治新政府への移行がスムーズに行われたのではないかとも言われ、
高い評価をされている徳川家康であるが、
彼の残した多くの名言の一つであるこの言葉は現代を生きる私たちにとっても、
傾聴に値するのではないだろうか。